2025年蟹座新月のパフューマリー通信。数日前に夏至を迎え、エネルギーの流れの変化を感じています。6月30日は夏祓いの儀も各地で行われますね。皆さまが下半期も健やかでお過ごしになられますように。
今回のパフューマリー通信はパルファンMyrtestränen <ミルテの涙>のモチーフでもあるミルテについて。<ミルテの涙>は音楽家クララ・シューマンに捧げる1st Collection第3作目の自然香水。ミルテについて調べていくと、イギリス王室とも深く繋がっている植物であったことを知りました。
オズボーン宮殿のミルテ
オズボーン・ハウスは英国ヴィクトリア女王が愛した夏の宮殿。イギリス南部ハンプシャー州沖合に浮かぶワイト島に所在します。1845年から1851年にかけて、ヴィクトリア女王とアルバート殿下のために建てられ、設計はアルバート公自身が手掛けました。
その宮殿の一角には別名オズボーン・マートルとも呼ばれる、特別なミルテ(マートル)の木があります。オズボーン・マートルの由来は1845年、アルバート公の祖母よりヴィクトリア女王へ贈られた花束にあったマートルの小枝を植えたことが始まりでした。古代ギリシャ、古代ローマの時代から愛を象徴する神木として崇められきたマートル。花嫁の無垢を象徴するものとして、19世紀当時、アルバート公の祖国ドイツでは花嫁がマートルの花輪を被るのが流行でした。
1858年ヴィクトリア女王の長女・ヴィクトリア王女の結婚式の際にオズボーン・マートルがウェディング・ブーケに用いられて以降、オズボーン・マートルはロイヤル・ウェディングの伝統となりました。近代ではエリザベス2世はもちろんのこと、ダイアナ妃、キャサリン妃、メーガン妃のウェディング・ブーケにも用いられています。また、ヴィクトリア女王は夏の日にマートルの庭を散策するのを楽しんだと日記に残しています。


ヴィクトリア女王とクララ・シューマン
クララ・シューマンは家計を支えるため、またロベルトの音楽を世に広めるため、ヨーロッパ各地へ音楽旅行に出掛け、イギリスも行先のひとつでした。1856年春に初めてイギリスを訪れ、ヴィクトリア女王の招きで御前演奏も行いました。
クララの英国行きにはちょっとしたエピソードも。当時デュッセルドルフからロンドンまでの旅路は汽車と船を乗り継ぐ過酷なもので、友人ブラームスはクララに英国行きをとどまるよう懇願し、また英国滞在中のクララに契約半ばでも早く切り上げるよう、自ら迎えにゆくことも提案することも。クララ自身も当時イギリスではメンデルスゾーンが大人気で、彼以外の作曲家が顧みられないことを嘆き、また英国人の最初の冷淡な印象や近づき難さを感じていましたが、「一度したしくなると、変わることがなく真の友情に堪えることができる。私は多くの人々を好きになることができた」と日記に記しています。
1856年7月ロベルトの死後、クララは演奏会で常に黒い喪服を纏い演奏していました。イギリスへは再び1857年、1859年春に巡遊し、1860年代に入ってから毎年春のシーズンにロンドンを訪問するようになり、毎回大きな歓迎を受けていたといわれています。後年リウマチを患ったクララにとって演奏旅行は大きな負担でしたが、英国への演奏旅行は1888年まで毎シーズン続きました。
英国王室では1861年アルバート殿下が42歳で急死。ヴィクトリア女王とアルバート殿下は大変仲が良く、深い哀しみに暮れたヴィクトリア女王は、アルバート殿下の死後、自身が崩御するまでの39年間、黒い喪服だけで過ごしたといわれています。
アルバート殿下は音楽も愛し、自身でもピアノを演奏したり、作曲していたといわれるほど。アルバート殿下を懐かしみ、またアルバート殿下の祖国がドイツであることや長女ヴィクトリアはプロセインに嫁いでいたこと、そしてヴィクトリア女王とクララは公式の場では常に黒い喪服でいたこと。同じ1819年に生まれ、立場は違えど、多くの共通点があったことと思います。今日イギリスのクラシック音楽界ではシューマンは不動の人気作曲家のひとりですが、クララによる長年のイギリスでの演奏活動による功績や、ヴィクトリア女王とクララとの心の交流もきっと寄与しているのではないでしょうか。
ヴィクトリア女王のオズボーン・マートルとクララのミルテの涙に思いを寄せて。

BLISS 茂谷あすか